ionwat’s blog

本・映画の感想や感じたこと、残したいことなどを書いていくブログ

辻村深月『傲慢と善良』を読んで。

こんにちは、ionwat です。

 

 

先日、辻村深月『傲慢と善良』(文庫版)を読了しました。

 

今年読んできた小説で個人的ベストだと思ったので、感想や考えたことを書き残そうという考えです!

 

※ネタバレを望まない方はブラウザバックをおすすめします。

 

 

 

 

 

 

この小説の何が良かったのか。
それは、現代の社会に蔓延る生きづらさのようなものを緻密にとらえていたことです。

 

 

例えば、自分の価値観やものの見方で他人と向き合ったり、誰かが決めた見えないレールの上を歩いているような感覚がしたりする。このような事柄が、「傲慢」「善良」という、キーワードから表現されているところがすごいと感じました。

 

物語に登場する小野里は、「傲慢は、個々人が自分の価値観に重きを置きすぎていること。善良は、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、”自分がない”となってしまっていること。」というように言っています(p.135)。

 

ここで「誰かに決めてもらうことが多すぎる」ということは、誰かが決めた見えないレールの上を歩いている、ということに置き換えることが可能だと思います。

 

特にはっとさせられたのは、p.283で、架が「この世の中に、「自分の意思」がある人間が果たしてどれだけいるだろう。」と言ったところです。

 

では、「自分の意思」を持つことは簡単なのかというと、そうではなくて、なかなか難しいことだなとも同時に思いました。

 

 

これらをまとめて考えると、私たちは、無意識的に傲慢さと善良さを持っていて、それに気がつけているかどうかが、日々を生きていくなかで、あるいは、相手と向き合うなかで、大切になるなと、そう考えます。

 

 

 

また、この小説は2部構成となっており、第1部では架が、第2部では真実が、それぞれ行動する中で、自分の至らなさだったり、相手への向き合い方だったりを、少しずつ変化させる描写がされていますが、両者がそれぞれ離れたところで、各々変化する(お互い相手のことを考えているわけですが。)という構成が私にとっては新鮮でした。

 

 

 

最後に、1つだけ気になった点があります。それは、表紙の女性は真実なのか、という疑問です。

 

物語のなかで、真実は、「うりざね顔で、一重瞼の和風な顔立ち」(p.41)と書かれていますが、表紙の女性は二重瞼です。

 

気になったので、単行本の表紙を確認すると、こちらの女性は一重瞼のように見えます。(amazonの商品ページの画像で確認しており、現物を見ていないため、確信は持てませんが。)

 

何か意味があるのかないのか、野暮な疑問かもしれませんが個人的にかなり気になってしまいました。

 

 

 

以上、辻村深月『傲慢と善良』を読んで感じたこと、考えたことでした!